中学生時代は「どこにでも居る普通のロック少年」だったのだが、高校の入学祝に「エレキギター(この言い方、古くね?)」を買ってもらったのをきっかけに、「どこにでも居るギター小僧」になっていた。
”ギターが上手になりたい”一心で練習をしていると音楽の聴き方も変わってくる。曲そのものよりも演奏を聴くようになり、楽曲で音源を買うのではなく、参加ミュージシャンで選択するようになっていた。
その当時は「ギターが上手い人」を追いかけて行くとJeff Beckにたどり着いた。その時期にBeckがやっていた音楽は「フュージョン(当時の言い方だとクロスオーバー)」だったので、必然的にフュージョン周辺の音楽を漁る事になり、最終的には数多のスタジオミュージシャンやセッションプレイヤーの名前を覚えることになった。だいだい、大場久美子のアルバムを「村上ポンタがドラムをたたいているんだぜ」という言い訳を利用して買ったりするのである。ホント可愛くないガキだった。根っからのアイドル好きのくせにね。
さて、YMOである。
細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人については前述の経緯から当然名前は知っていた。
細野晴臣はティン・パン・アレー(”はっぴいえんど”はリアルタイムで体験していない)での活動やソロワークを観ていた。高橋幸宏はサディスティックス(”ミカバンド”もリアルタイムで体験していないなあ)での活動もそうだがファーストソロアルバム「Saravah!」がホントにオシャレで大好きだった。坂本龍一は山下達郎のバックを勤めるアルバイト学生。山下達郎のライブアルバム「IT'S A POPPIN' TIME」でキーボードを弾いていた。
ところで、細野晴臣のアルバム「はらいそ」はB面の最後で「この次はモアベターよ」の台詞で終わる。なので、YMOのファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」は細野晴臣のソロアルバムだと勘違いをしていた。だって、”ファイヤークラッカー”なんてそのまんま細野ワールドじゃない。
アルバム発売当時、高校の同級生に「なんかお奨めのレコードとかある?」と尋ねられて「そういえばこの間NHKのFMでかかってた細野晴臣の新作が面白かったよ」と言って「イエロー・マジック・オーケストラ」を買わせた思い出がある。その後、彼はYMOにすっかりはまってしまい、全リリース音源はおろかマニアックなノベルティグッズを収集するまでになった。で、ぶっちゃけて言うとYMOの音源は彼からダビングしてもらったカセットテープしか持っていなかったのだな。
しかし、その当時はYMOがブームになるなんて想像もできなかった。「はらいそ」から繋がる細野晴臣の趣味の世界だと思っていたのでね。その後に発売された「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」によりブレイクしたと言ってもいいだろうね。プラスチックス、P-MODEL、ヒカシューなど、数多くのテクノポップ・フォロワーが生まれ、アイドル歌謡さえもテクノポップの姿を借りていた。それと、”テクノカット”という髪型が大流行し、かく言う私もご多分に漏れずだった。幼稚園の運動会で徒競走のBGMに「ライディーン」が流れていた時代だよ。(中田ヤスタカはこの時代は幼稚園の年少さん?のはずだが、よくPerfumeでテクノポップをやることを思いついたなあ。ライディーンでかけっこしてたのかなあ。それにしても感心する。)
YMOから始まった「テクノポップ」は「テクノ」と略称されて、社会現象として幅広く日本全国に浸透していったわけ。だから、クラブミュージックと接点の無かった人達にとって「テクノ」と言えば「テクノポップ」なのね。「テクノとテクノポップを混同するな」って言っちゃダメだよ。そもそもデトロイトテクノに端を発する「テクノ」の存在を知らないのだから。
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困った事にPerfume成分が多目です。彼女達の親御さんとは間違いなく同世代です。ちなみにP.T.A.会員です。
ホントに御免なさい。
御用命は「lstd_rd の yahoo.co.jp」まで。